中国の戦国時代に実在した『最強武将』は誰?
韓の智将~申不害~
戦国七雄と称される国々の中でも、韓は最も力を持たない国でした。
ほとんどの領土を魏に取り囲まれ、西は大国である秦が鎮座していた。
どこの国よりも息苦しい思いをしていた国であったと言っても過言ではないでしょう。
韓には武に長けた将軍は生まれませんでしたが、後世に多大な影響を与えた思想の原型を生み出した智将がいました。
それが、『申不害』という人物です。
申不害は法による統治を主君に進言し、韓の国勢の安定に貢献しました。
彼の法治思想は、後の始皇帝が信奉した『韓非子』に受け継がれました。
法治国家を作るという発想は、現代の日本の国政にも受け継がれていますね。
魏の仁者~信陵君~
魏は複雑な国境を持つ上に、韓・趙・斉・楚・秦の5つの国と接していました。
特に、大国であった秦から受けるプレッシャーは凄まじいものでした。
その中で仁徳あふれる人柄で多くの国の人々の心をつかみ、秦軍を函谷関で窮地に追い込んだのが魏の公子である『信陵君』です。
信陵君は普通の人が冷遇するような身分の低い人にも礼をはらう仁者で、その人となりの素晴らしさは他国にも轟くほどでした。
秦に「信陵君が生きているうちは魏を滅ぼせない」と言わしめるほどの大人物でした。
武ではなく、仁によって自国を守るその姿に感銘を受けずには居られません。
趙の守護神~李牧~
キングダム愛読者ならば知る人ぞ知る『李牧』。
実際はどのような人物だったのでしょう。
春秋時代を紐解くのに欠かせない司馬遷の『史記』には、その名を冠する列伝はありませんが、『廉頗藺相如列伝』で司馬遷は李牧を守戦の名将と称しています。
『廉頗』『藺相如』といった名将を失い、衰退の一途を辿り始めた趙を再び盛り返したのが李牧でした。
李牧は度重なる秦による侵攻を何度も食い止め、逆に秦が他国から奪った領土を奪い取ることに成功します。
最期は、秦の策略により趙王に謀反人であると讒言され、命を落とします。
李牧が亡くなった年が趙の最期の年にもなりました。
李牧一人の力で趙はもっていたのですね。
燕の猛将~楽毅~
「隗より始めよ」という言葉を聞いたことはありませんか?
「賢者を招きたければ、まずは身近にいる凡庸なこの私、郭隗を用いなさい」
つまり、「どこにいるかわからない、遠くにいるかもしれない大賢人を招くためには、まず身近にいる凡庸な人を重用すればよい。
そうすれば、その噂を聞いて大賢人が集まってくるだろう」ということです。
それによって集められた賢人の中にいたのが『楽毅』でした。
斉に一度滅ぼされかけていた燕でしたが、楽毅の力によって斉を追い詰めます。
しかし、斉にも田単という策士がおり、その策によって斉から奪った領土を奪い返されてしまいます。
それでも、一度追い詰められた斉が国力を回復するのは難しく、斉は破滅の道をたどります。
斉の滅亡は楽毅無しには語れません。
斉の策士~田単~
『田単』は、楽毅により滅亡に追い込まれた斉を、智謀によって救った斉の武将です。
斉は当時秦と並ぶ強国でしたが、燕の楽毅によって滅亡寸前まで追い込まれてしまいます。
そこで、起死回生の策を連発して斉の領土を奪い返していったのが田単です。
田単の策は実に多種多様で、燕軍に楽毅の悪い噂を流したり。
自軍の士気を上げるための宗教的なものを作ったり。
女子供・老人に城を守らせ敵を油断させ、わざと降伏し、夜に角に刀剣をくくった牛を城に入れ、牛の尻に火をつけ走らせて燕軍をだまし討ちにしたり。
これほどの策士は歴史的に見てもなかなかいないでしょう。
楚の烈士~項燕~
楚は領土こそ広大でしたが、南方のあらゆる民族が合わさった烏合の衆ともいえる国です。
内政はひどく混乱しており、他国との争いに力を入れることがなかなかできない国でした。
『春申君』という名将がいましたが、五か国連合による秦討伐に失敗し、政争によって殺されてしまったために、
楚はいよいよ弱体化してしまいます。
そのような時に現れたのが『項燕』でした。
項燕は秦が20万の軍勢で侵攻してきたのを全滅させた上に、逆に秦の函谷関にまで攻め込みます。
しかし、最終的には前線を退いていた『王翦』を呼び戻した秦軍に敗れてしまいます。
それでも函谷関という秦の喉元まで迫り、王翦まで引っ張り出させた項燕の力は凄まじいものでした。
秦の猛将~王翦~
秦は、7つの国の中で最も西に位置する多民族国家ともいえる国でした。
列国中最強と呼ばれた所以は、秦が民族を問わず優秀な人材を登用していたからに他なりません。
そのため、秦には数多くの名将がいます。
その中でも特筆すべき存在は、キングダムでも活躍する『王翦』でしょう。
王翦は趙・楚の2か国を滅亡に追いやっており、秦統一のために最も貢献した人物です。
王翦の魅力はその優れた洞察力にあります。
王翦は洞察力を活かし、数々の計略を用いて秦軍を勝利に導きました。
年老いてもそれは変わらず、函谷関まで迫ってきた楚軍を返り討ちにし、逆に楚を攻め滅ぼすほどでした。
王翦は秦王の性質もよく読み取り、秦王に猜疑心を抱かせぬように振舞っていたため、この時代には珍しく、天寿を全うすることができました。
まとめ
いかがでしたか?
今回紹介した7人は戦国時代の魅力的な武将のうちのほんの一握りにすぎません。
この7人だけで戦国時代を知ることができたと満足するのは少し早合点ですね。
この記事が、あなたの中国戦国時代への興味の一助になれば幸いです。
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